
ご挨拶
はじめまして。フリースクール「夢を叶える小鳥」代表のいちきです。
現代社会では、価値観や生き方の多様性が、これまで以上に大切にされるようになってきました。性別や年齢、特性や能力、働き方や学び方、進路、趣味やライフスタイルに至るまで、「こうあるべき」「普通はこうだよね」といった一つの正解に自分を当てはめるのではなく、自分に合った形を、自分で選んでいくことが、少しずつ認められる社会へと移り変わっています。
かつては、「学校に毎日通い、良い成績を取り、卒業後は就職する」「一度就職したら、同じ会社で長く働く」といったように、人生のモデルがある程度決められていました。そのレールから外れることは、「失敗したのではないか」「ちゃんと努力していないのではないか」と見なされることも多く、周囲の目を気にして無理を重ねてしまう人も少なくありませんでした。
しかし今では、その前提そのものが揺らぎ始めています。社会の変化や技術の進歩によって、人それぞれが異なるペースや形で人生を築いていくことが、現実的な選択肢として見えやすくなってきたのです。インターネットやSNSの普及は、こうした変化を大きく後押ししています。年齢や住んでいる場所に関係なく、私たちは日常的にさまざまな生き方や価値観に触れられるようになりました。
これまでであれば、身近な大人や限られた情報の中でしか知ることができなかった「将来像」も、今では動画や記事、SNSを通して、多様なロールモデルとして目にすることができます。
会社員として働く人だけでなく、フリーランスとして自分のペースで働く人、起業して小さな事業に挑戦している人、イラストや動画編集、文章執筆などのスキルを活かして仕事をしている人、複数の仕事を掛け持ちしながら生活している人など、数え切れないほどの選択肢があることを、私たちは知るようになりました。
その結果、「みんなと同じ道を進むこと」よりも、「自分にとって納得できる道を選ぶこと」を大切にする考え方が、少しずつ広がっています。
周囲と違う選択をすることに不安を感じる場面はあっても、「違っていてもいい」「時間がかかっても、自分に合う形を探していい」という価値観が、以前よりも受け入れられやすくなってきているのです。社会の変化は非常に速く、これまで当たり前とされてきた進路やキャリアの形が、すべての人にとっての正解とは限らなくなってきました。
学校を卒業して就職し、同じ会社で長く働くというモデルだけでなく、若いうちから自分のアイデアを形にし、10代や20代で起業という道を選ぶ人もいます。
また、動画配信、デザイン、プログラミング、文章執筆、ものづくりなど、学校の授業だけではなかなか触れる機会のなかった分野で、自分の得意なことや好きなことを活かしながら、自分らしい働き方や生き方を模索する人も増えています。
一方で、社会に出てから「このままでいいのだろうか」「本当は、別のことに挑戦してみたい」「今の仕事が自分に合っていない気がする」と感じる人も少なくありません。30代・40代になってから大学や専門学校に通い直したり、オンライン講座を活用して新しい知識やスキルを身につけたりするなど、学び直しの形も多様化しています。
海外に留学し、異なる文化や価値観に触れることで、これまでの常識を見直し、新たな視点や目標を見つける人もいます。年齢やこれまでの経歴に関係なく、「学びたい」と思ったときに学び直せる環境が、少しずつ整ってきているのです。
就職後の働き方についても、大きな変化が見られます。転職を重ねながら、自分に合う職場や働き方を探す人が増え、ひとつの会社に長く勤めることだけが、必ずしも安定や成功を意味するわけではなくなってきました。フルタイムで長時間働くことにこだわらず、時短勤務や週数日の勤務を選び、心身の健康や生活とのバランスを大切にする人もいます。副業や複業に挑戦し、複数の仕事を通して経験や人とのつながりを広げながら、自分の可能性を少しずつ広げていく人も増えています。
さらに、育児や介護、病気や体調の問題など、人生のさまざまな局面に応じて、在宅勤務やリモートワークを選ぶことも、現実的な選択肢となってきました。「働き続けること」と「自分の生活や大切な人を守ること」は、どちらかを犠牲にするものではなく、両立を模索してよいものだという考え方が、社会全体に少しずつ広がっています。
このように現代社会は、一本道の人生ではなく、何度でも立ち止まり、考え直し、選び直すことができる社会へと変化しつつあります。ある人にとっては、早朝の出勤や長時間の会議が大きな負担になる一方で、別の人にとっては、それがやりがいや充実感につながることもあります。学びの場においても同じです。
同じ内容を学んでいても、理解のスピードや得意・不得意、集中できる時間や学びやすい方法は、人それぞれ異なります。全員が同じペースで進むことが、必ずしも最良の方法とは限りません。
迷うことや遠回りすることも、決して無駄ではありません。それは、自分にとって何が大切なのか、どんな環境なら安心して力を発揮できるのかを、見つめ直すための大切な時間でもあります。
自分に合ったペースで、必要に応じて立ち止まりながら、一人ひとりが自分なりの歩み方を選んでいけること。そのこと自体が、これからの社会において、より大切な価値になっていくのではないでしょうか。
一方で、私たちが暮らす社会では、「価値観の多様化が進んでいる」「多様性が尊重される時代になった」と語られる機会が増えてきました。しかし実際の暮らしや、学校・会社といった日常の場面に目を向けると、理解や配慮がまだ十分に行き届いていない課題も、数多く残されているのが現状です。
制度や言葉の上では、「多様性」「個性の尊重」「一人ひとりを大切にする」といった表現が使われる場面は確かに増えてきました。けれども、日々の学校生活や職場での人間関係の中では、無意識の前提や、長年続いてきた慣習がそのまま残り、その中で生きづらさを感じている人は少なくありません。
学校という場を考えてみると、朝のホームルームでの何気ない一言や、行事の役割分担、服装や髪型の決まりごとなど、日常のあらゆる場面に「こうであるのが普通」「みんな同じであることが当たり前」という前提が、今も数多く存在しています。
それらの多くは悪意のないものですが、その「当たり前」に自分を当てはめることが難しい生徒にとっては、日々小さな違和感や緊張を積み重ねる原因になります。
セクシャリティのあり方も、その一つです。性自認や性の感じ方は本来、一人ひとり異なるものです。しかし現実には、「男の子だからこう振る舞うべき」「女の子だからこうあるべき」といった固定的な性別役割が、学校生活のさまざまな場面で前提とされていることがあります。クラスでの呼びかけ、行事での役割分担、体育や部活動の内容、進路指導での言葉がけなど、何気ない場面で性別による区分が行われ、その中で「自分はどこにも当てはまらない」「どちらにも違和感がある」と感じながら過ごしている生徒もいます。
自分の性自認や気持ちについて、誰かに理解してほしいと願っていても、「変に思われるのではないか」「からかわれたり、噂されたりしないだろうか」「先生に話しても、きちんと分かってもらえないのではないか」といった不安から、誰にも打ち明けられずにいるケースも少なくありません。
周囲から見ると、特に問題なく学校生活を送っているように見えても、内側では常に人の目を気にし、言動を慎重に選び、緊張や不安を抱えながら過ごしている生徒もいます。笑顔で過ごしているように見えても、心の中では「本当の自分を知られてはいけない」「目立たないようにしなければ」と、自分を抑え続けていることがあります。
その状態が長く続くことで、強い孤独感を感じたり、「自分はここにいていい存在なのだろうか」「このまま我慢し続けなければならないのだろうか」と、自分の価値そのものを疑ってしまうこともあります。制服の問題も、こうした生きづらさをより具体的に感じさせる要因の一つです。
性自認に合わない制服の着用を求められたり、体調や感覚特性に合わない素材や形の制服を、毎日我慢して着続けたりすることで、心身への負担は少しずつ蓄積されていきます。
着替えの時間が苦痛になったり、鏡を見ること自体がつらくなったり、人目を気にして常に緊張した状態で過ごしたりすることは、学習への集中や友だちとの関係にも影響を及ぼします。「制服を着ること」そのものが、学校生活の大きなハードルになってしまう生徒もいます。
近年では、ジェンダーレス制服を導入する学校も増えてきましたが、それだけですべての問題が解決するわけではありません。特定の素材が肌に合わなかったり、締め付けや重さがつらかったりする生徒にとっては、制服そのものが大きなストレスとなります。朝の着替えの段階で疲労や不安を感じ、「学校に行く前からもう精一杯」という状態になってしまうこともあります。
体育の授業や部活動においても、男女別での活動が前提とされる場面は今も多く見られ、「男子は競技スポーツ」「女子はダンスや表現活動」といった分け方によって、本当は興味があるのに参加しづらかったり、得意ではない活動を求められたりして、居心地の悪さを感じる生徒もいます。
周囲の視線や期待を意識するあまり、「やってみたい」という気持ちを抑え込み、自分の本音を後回しにすることが当たり前になってしまうこともあります。こうした小さな違和感や我慢は、一つひとつは目に見えにくくても、積み重なることで心や体に大きな負担を与えます。「自分が悪いのかもしれない」「我慢できない自分が弱いのかもしれない」と感じながら過ごす時間が長くなると、自尊感情が下がり、学校に行くことそのものがつらくなってしまう場合もあります。そして、こうした葛藤は、学校の中だけで完結するものではありません。
社会に出て、会社や職場という環境に移っても、同じような構造が続くことがあります。会社では、「社会人なのだからこれくらいできて当然」「空気を読むのが当たり前」「周りと同じように働けるはず」といった暗黙の前提が存在することが少なくありません。服装や髪型、働き方、コミュニケーションの取り方、長時間労働への耐性など、表には出にくい「普通」の基準があり、それに当てはまらない人が「配慮される側」「特別な存在」として扱われてしまうこともあります。
性別による役割意識や、セクシャリティに関する理解の不足も、職場では依然として課題となる場面があります。「男性だから」「女性だから」といった言葉が何気なく使われたり、冗談のつもりの発言が当事者にとっては大きな負担になることもあります。しかし、仕事の評価や人間関係への影響を考え、本音を言えずに我慢を続けている人も少なくありません。
学校でも会社でも共通しているのは、「合わせる側」に無理が集中しやすい構造です。環境や仕組みが変わらないまま、「本人の努力」や「慣れ」に委ねられてしまうことで、心身の負担は見えにくいまま積み重なっていきます。
その結果、学校に行けなくなったり、仕事を続けることが難しくなったりする人もいますが、それは決して個人の弱さや能力不足によるものではありません。
多様性が尊重される社会とは、特別な誰かのためだけに用意された配慮がある社会ではありません。一部の人が「我慢する側」「合わせる側」になるのではなく、誰もが最初から安心して自分らしくいられる選択肢が用意されている社会のことだと、私は考えています。そのためには、「これが普通」「こうするのが当たり前」という前提を一度立ち止まって見直し、選択肢を増やし、対話を重ね、状況に応じて柔軟に考える姿勢が、学校にも会社にも、そして社会全体により一層求められているのではないでしょうか。
学校では今も、「同じ年齢であれば同じことができるはず」「みんなと同じペースで進むのが当たり前」といった価値観が、授業の進め方や評価の在り方の中に色濃く残っている場面があります。学年や学級ごとにカリキュラムが一律に設定され、限られた時間の中で、同じ内容を同じ速度で進めることが前提となっているため、一人ひとりの理解の仕方や感じ方、興味や関心の向き、集中できる時間の長さといった違いが、十分に反映されにくい構造になっています。
一斉授業という形式では、理解のスピードの違いや、得意・不得意、考えを言葉で表現することが得意な子もいれば、書くことで力を発揮する子、体験を通して理解が深まる子など、多様な学び方の違いが見えにくくなりがちです。
その結果、「分かる・分からない」「できる・できない」という分かりやすい指標だけが前面に出てしまい、そこに至るまでに積み重ねてきた努力や工夫、試行錯誤の過程が十分に評価されないまま、結果だけで判断されてしまうことも少なくありません。
そのような環境の中で、自分なりに一生懸命取り組んでいても、「周りについていけない」「質問しようと思ったときには、もう次の内容に進んでしまっている」「理解が追いつく前に授業が終わってしまう」と感じる生徒もいます。分からないことがあっても、授業の流れを止めてしまうのではないか、周囲からどう思われるのかと不安になり、声を上げられないまま時間だけが過ぎていくこともあります。
さらに、テストや発表、成績といった形で常に周囲と比較されることで、人間関係に悩んだり、「自分はここにいていいのだろうか」と居場所を見失ったりし、次第に学校そのものに行きづらさを感じてしまうこともあります。
本当は努力しているにもかかわらず、その過程が十分に認められないまま結果だけで評価され続けると、「自分はできない人間なのではないか」「どれだけ頑張っても意味がないのではないか」と自信を失ってしまうことがあります。
こうした体験が積み重なることで、自己肯定感が少しずつ削られ、無力感が強まり、本来は前向きなものであるはずの「学ぶこと」そのものへの意欲が奪われてしまうケースも少なくありません。
私は、学校という存在そのものを否定したいわけではありません。学校には、集団の中で学ぶことを通して人と関わる力を育むこと、社会の中で必要なルールや協調性を身につけることなど、今も変わらず大切な役割があります。
教科の知識だけでなく、友だちとの関係の中で感じる喜びや葛藤、先生とのやり取り、行事やグループ活動を通して得られる経験など、学校だからこそ得られる学びや成長があることも確かです。
日本でも近年、不登校支援や障がいのある子どもへの合理的配慮は、少しずつではありますが確実に広がりを見せています。別室登校や情緒学級、支援学級、学びの多様化学校、通級指導、オンライン学習の活用、スクールカウンセラーの配置など、制度や選択肢は以前に比べて増えてきました。
こうした変化は、現場で日々子どもたちと向き合い続けてきた先生方や、教育関係者の地道な努力の積み重ねによるものだと感じています。
一方で、実際のご家庭に目を向けると、今なお多くの保護者の方が、不安や迷いを抱えながら、手探りの状態で選択を迫られているのが現状です。不登校や学びづらさが見え始めたとき、「この対応で本当に合っているのだろうか」「子どもに無理をさせていないだろうか」と悩み、最初に責任を感じて立ち止まってしまうのは、多くの場合、保護者の方です。
「少し休めば学校に戻れるのではないか」「甘やかしていると思われないだろうか」「この選択が将来に悪影響を与えないだろうか」。そうした思いの間で揺れ動きながら、学校や関係機関と相談を重ねる中で、次第に「何が正解なのか分からない」という状態に陥ってしまうご家庭も少なくありません。周囲からの意見や情報が多ければ多いほど、判断は難しくなり、誰にも本音を話せないまま孤立感を深めてしまうこともあります。
日本の学校教育は今もなお、「学級単位で一斉に学ぶ」「同じ年齢で、同じ内容を、同じペースで進める」という枠組みを基本としています。適応指導教室や別室登校といった「教室以外の場」が用意されることもありますが、現場では「いずれ教室に戻ること」「元の集団に再適応すること」が、暗黙のゴールとして設定されてしまうケースも見受けられます。その結果、「なぜ教室がつらかったのか」「どのような環境であれば安心して学べるのか」といった本質的な問いが十分に共有されないまま、子どもや家庭が“適応する側”として努力を求められてしまう場面もあります。本来であれば環境を調整すべき状況であっても、本人の我慢や頑張りに委ねられてしまうことがあるのです。
海外の北欧諸国やカナダ、オーストラリアの一部の学校では、「すべての子どもは学び方が違う」という前提のもと、生徒一人ひとりの興味・関心や学習スタイルに合わせた柔軟なカリキュラムが取り入れられています。プロジェクト型学習や探究型学習を中心に、学びの結果だけでなく過程が重視され、評価もテストの点数だけでなく、取り組む姿勢や試行錯誤の過程、以前の自分からの成長などを含めて多面的に行われています。そのため、「できなかった」経験がそのまま否定につながることは少なく、失敗も学びの一部として受け止められる環境が整っています。挑戦すること自体が価値として認められるため、生徒は安心して試行錯誤を重ねることができます。
また、海外では不登校や障がいを、本人の問題や努力不足として捉えるのではなく、環境や仕組みを調整すべきものと考える傾向が強くあります。登校時間の柔軟化、在宅学習やオンライン学習の正式な位置づけ、少人数指導や個別支援の選択、スクールカウンセラーや特別支援教員、心理士などがチームで関わる体制が、制度として比較的明確に整えられています。
通常学級と特別支援教育を分断するのではなく、必要に応じて行き来できるインクルーシブ教育が進んでいる国も多く、「特別な場所に分ける」のではなく、「同じ社会の中で学び方を調整する」という考え方が基本にあります。
一方、日本では法律や指針が整備されていても、その具体的な運用は自治体や学校に委ねられている部分が大きく、支援の内容や質に差が生じています。理解のある先生に出会えたか、専門スタッフが配置されているか、地域の予算や人員に余裕があるかといった条件によって、受けられる支援が大きく変わるのが現状です。
加えて、教員不足や業務過多の問題も深刻で、多くの先生方が「一人ひとりに丁寧に関わりたい」と願いながらも、十分な時間や余力を確保できない状況に置かれています。その結果、本来であれば環境調整や継続的な見守りが必要な子どもに対しても、「今は様子を見よう」「もう少し頑張ってみよう」という判断になってしまうことがあります。
こうした状況の中で、保護者の方は「家で何とかしなければならない」と感じ、子ども本人は「自分が学校に行けないから迷惑をかけている」と思い込んでしまうこともあります。しかし、これは誰か個人の努力不足や判断ミスではありません。個別対応を前提としていない教育構造そのものの課題であり、社会全体で向き合うべき問題だと、私は考えています。
日本においても、不登校という結果が表れてから対応するのではなく、違和感がまだ小さい段階で環境を調整し、子どもを学びから切り離さない仕組みを整えていくことが、今後の大きな課題です。子ども、保護者、学校、行政のいずれかが無理をするのではなく、それぞれが役割を分担し、支え合える体制を築いていくこと。
そのために必要なのは、「正解を一つに決めること」ではなく、複数の選択肢を社会として認め、状況に応じて柔軟に選べる仕組みを整えることだと考えています。
こうした教育の在り方に向き合う中で、私は「学びには、もっと多様な選択肢があっていい」と強く感じるようになりました。これが、フリースクール「夢を叶える小鳥」を開校した原点です。
フリースクール「夢を叶える小鳥」は、「学校に戻すこと」や「社会に早く適応させること」をゴールにはしていません。
私たちが大切にしているのは、学年や年齢、性別、出席日数や成績、評価といった既存の枠組みに当てはめることよりも、一人ひとりが自分のペースで安心して過ごし、自分自身と向き合いながら歩んでいける時間と環境です。頑張れる人だけが評価されるのではなく、立ち止まる人、回り道をする人、休みながら進む人も、それぞれの形で尊重される社会であってほしい。その思いが、私たちの理念の根底にあります。
新しい一歩を踏み出すことは、不安や緊張を伴うものです。
それでも、その一歩の先には、これまで気づかなかった自分の強みや可能性、そして新しい出会いが待っているかもしれません。
私たちは、その歩みのそばで一緒に考え、必要なときには支え続ける存在でありたいと願っています。